貴久さんのお話

天国へ旅立った鈴木コーチへ、せめてもの手向けができた。6回まで2安打に封じられた猛牛打線が、4点を追う7回に目覚めた。無死一、三塁から北川、代打・高須の適時打で2点を返し、打席に2年目の大西が入った。
2軍暮しだったルーキーの昨年、ティー打撃の相手をしてくれたのが、鈴木コーチだった。「教えは“積極的に行け”でした」1死満塁、初球のカーブを引っ張り、左前に同点タイムリー。梨田監督も「7回はよく追いついてくれた。選手は頑張った。(鈴木コーチの急死で)燃えていたしな」と、恩師譲りの勝負強さを見せたその一打をたたえた。
同コーチが他界した17日は泣きじゃくり、翌日も目は腫れ上がっていた。師と同じ右の外野手で、スラッガー。「まだ、信じられない。でも、これから先の野球人生で、結果を残すことが、恩返しになると思う」勝ち星を贈ることはできなかったが「鈴木2世」は、心に誓った。(武田 泰淳)
◆鈴木コーチ告別式 ローズ、野茂から供花
急性気管支肺炎のため、17日未明に死去した近鉄鈴木貴久2軍打撃コーチ(享年40歳)の告別式は19日、大阪・平野区の平野中央メモリアルホールでしめやかに行われた。
球団、球界関係者が約300人参列したなか、遠征先の福岡から緊急帰阪した梨田昌孝監督(50)は、17日のダイエー戦(福岡ドーム)のウイニングボールを霊前に供えた。「また向こう(天国)でバットを振ったり、キャッチボールをしたりして欲しい。寂しいけど、前を向いてやっていかないと…。力を合わせ、いい報告をしたい」と、目を赤くしながら、3年ぶりのV奪回を心に誓った。
式場には通算1000安打の記念パネル写真や、現役時代のバット、スパイクなどが置かれ、近鉄時代から親交の深かった巨人・ローズ、ドジャース・野茂からも供花が届けられた。(古田 尚)

ダイエー6−5近鉄>◇19日◇福岡ドーム
 リーグ優勝を天国から見守ってください−。17日未明に急性気管支肺炎で亡くなった、近鉄鈴木貴久2軍打撃コーチ(享年40)の葬儀・告別式が19日、大阪市平野区で行われた。遠征先の福岡から駆けつけた梨田監督は「結束して(いい)報告ができたら」と涙。とんぼ返りして臨んだダイエー戦こそ敗れたが、霊前に逆転優勝を誓った。また鈴木コーチの功績をたたえ、大阪ドームでの公式戦を追悼試合として行うプランも明らかになった。
 涙の逆転V宣言だった。梨田監督は福岡遠征中のチームをいったん離れ、この日午前の飛行機で大阪へ。田代オーナー、小林球団社長らと葬儀に参列した。「いっぱい、いろんな思い出があるんでね…」。焼香を終えて話し始めた時には、もう涙があふれていた。
 鈴木コーチが死去した17日。その夜、喪章をつけチーム一丸で手にした、ダイエー戦のウイニングボールを棺(ひつぎ)の上に置いた。「みんなから預かってきました。向こう(天国)でバッティングやキャッチボールをしてもらいたい。一番の思い出は10・19(優勝をかけて戦った88年ロッテとのダブルヘッダー)です。(鈴木コーチの)教えを守って、結束して、(いい)報告ができたらということで…。前を見てやっていくしかない」。悲願の日本一を見届けることなく、志半ばでこの世を去った戦友。勝ち続けることが何よりの供養になる。梨田監督は意を決して涙をぬぐうと、慌ただしくダイエー戦の指揮をとるため福岡へ戻った。
 棺には、鈴木コーチの背番号72のユニホームのほかに、好物だったホッケ1匹とタラバガニのツメと足、藤井寺球場のバッターボックスの土が納められた。式場には現役時代のバット、スパイクなどが置かれ、巨人ローズ、ドジャース野茂からの供花も届けられた。私設応援団が演奏する、現役時代のヒッティングマーチと「かっとばせ、貴久! 」の声の中、球団旗にくるまれて出棺。涙雨の中、鈴木コーチは天国へ旅立った。【浜田司】

17日に40歳で急逝したプロ野球近鉄二軍打撃コーチの鈴木貴久氏の葬儀が19日、大阪市内で営まれ、同球団の梨田昌孝監督、田代和オーナーら多数の球界関係者らが故人をしのんだ。
現役、コーチと近鉄一筋で過ごし、1989年の優勝時には主力打者として活躍した鈴木氏。遠征先の福岡から駆け付けた梨田監督は17日の試合のウイニングボールを霊前に供え、「いろいろな思い出がある。みんなで力を合わせ、またいい報告をしたい」と目頭を押さえた。

急性気管支肺炎で17日に亡くなったプロ野球近鉄の2軍打撃コーチ、鈴木貴久さん(40)の葬儀が19日、大阪市平野区で営まれた。福岡から急きょ戻った梨田昌孝監督ら約300人が参列し、別れを惜しんだ。梨田監督が17日のダイエー戦のウイニングボールを「向こうでキャッチボールしてほしい」と霊前に備えた。