貴久さんのお話

鈴木 貴久氏(すずき・たかひさ=プロ野球近鉄2軍打撃コーチ)17日午前1時17分、急性気管支肺炎のため、大阪府八尾市の八尾徳洲会総合病院で死去、40歳。北海道旭川市出身。告別式は19日午前11時半から同市平野区長吉川辺3の8の43の平野中央メモリアルホールで。喪主は妻ゆかりさん。
1989年の近鉄パ・リーグ優勝時に、主力打者として貢献。85年に近鉄に入り、2000年に引退するまで、通算1501試合出場、192本塁打、657打点。 

近鉄鈴木貴久2軍打撃コーチが17日午前1時17分に急性気管支炎のため大阪府八尾市の病院で死去、40歳だった。鈴木氏は85年ドラフト5位で近鉄に入団。01年に2軍打撃コーチに就任した。15日のウエスタン・阪神戦(鳴尾浜)にもコーチとして出場していたばかり。現役コーチの急死に近鉄ナインはもちろん、球界関係者も言葉を失った。
現役コーチの突然死。しかも40歳という若さ。いてまえ打線を支えた「10・19」戦士のあまりにも突然の訃報だった。
球団発表と関係者の話を総合すると、鈴木コーチが体調不良を訴えたのは1週間ほど前から。「体がだるい。風邪をひいたのかも」と語っていたが、病院には行かずに2軍の指導を続けていた。しかし、14日深夜に愛犬を連れて大阪・平野区の自宅近くを散歩中に、通りかかった車を避けようとして転倒。15日のウエスタン・阪神戦(鳴尾浜)では「腰が痛い」と語るとともに吐き気を訴えた。翌16日の2軍練習を休み、自宅で静養していたが、その深夜に容体が急変した。
突然の出来事に球団も即座には事実関係の把握はできなかったほど。知らせを受けて八尾市内の病院に駆けつけた球団関係者も動転したゆかり夫人(40)から話をすぐに聞くことはできなかったという。遺体が葬儀場に移されても、夫人は棺のそばを離れようとはしなかった。
猛牛伝説を生んだ88年の「10・19」ロッテ戦(川崎)を戦った1人。ダブルヘッダー第1試合では九回に梨田(現近鉄監督)の適時打で二塁から決勝のホームを踏んだ。97年4月8日のロッテ戦では大阪ドーム公式戦第1号本塁打も記録。北海道生まれのおおらかさと勝負強さを併せ持つスラッガーとして知られ、引退後は若手育成手腕を注目されていた。「第2の中村」育成に情熱を注いでいた矢先の急逝だった。
後任は19日の葬儀後に球団内で話し合われるが、2軍ヘッド格の中尾明生野手総合コーチ(51)が兼務するものと思われる。
◆鈴木 貴久氏(すずき・たかひさ)1963年(昭38)11月20日、北海道生まれ。旭川大高3年夏の甲子園で3回戦進出。電電北海道(現NTT北海道)から、85年ドラフト5位で近鉄入団。87年から4年連続20本塁打以上。97年、大阪ドーム公式戦1号。00年に引退し、01年2軍打撃コーチに就任。1軍通算成績は、1501試合、打率・257、192本、657打点。

【近6−4ダ】左腕の喪章にそっと手をやった。七回1死二、三塁。逆転二塁打を放った水口は二塁ベース上で哀悼の意を表した。
「鈴木さんは全部が手本だった。僕はそれを見てやってきた。きょうは絶対に勝たないといけない試合だった」。ベテランはそう言うとタオルで目頭を押さえた。
水口だけではない。七回2死一、二塁から左中間二塁打を放った礒部は「本当にお世話になった」。3四球を選んで勝利に貢献した中村も「鈴木さんの気持ちがここ(福岡ドーム)まで届いた。まだまだ教えてもらいたいことがいっぱいあったのに…」と唇をかんだ。
宿舎出発前に悲報を知らされ、黙とうしてから球場入りしたナインの気持ちは1つになった。そして勝った。梨田監督はあす19日早朝に大阪に戻り、葬儀に参列してから再び福岡に戻って指揮を執る。「福岡ドームでは今季初勝利。勝たせてくれたのかな」。握りしめたウイニングボールは霊前に供える。
近鉄パウエル(今季9度目の先発で初勝利)長かった。点を取られた後も低く投げようと心掛けた。(昨年10月に生まれた)長男にようやく白星をプレゼントできたし、鈴木さんにも勝ちを贈れて良かった。

猛牛軍団が、男泣きした。この日、急性気管支肺炎で他界した鈴木2軍打撃コーチに、弔いの逆転白星をささげた。「7回は、みんなの気持ちが集中していた。スズ(鈴木コーチ)が勝たせてくれたかな…」ウイニングボールを手にした梨田監督は、目頭を押さえてた。
まさに男の意地だった。2点ビハインドの7回。1死満塁からダイエー4番手・水田の暴投で1点差に迫ると、水口が逆転の2点適時二塁打を左翼線に運んだ。二塁に走りつくと、ギュと左袖の喪章を握り締めた。さらに2死一、二塁から礒部が左中間二塁打選手会長も二塁ベース上で、何度も喪章に触れた。チーム全員の思いが、スコアボードに5点を刻んだ。
3点差をひっくり返したのは今季2度目。執念の逆転劇は、天国の鈴木さんへ届いたはずだ。試合後の通路では、水口がタオルで顔を覆った。野手ではチーム最年長の35歳。「絶対に勝たなあかん試合。僕が入団したとき、スズさんはバリバリのレギュラー。すべてが手本でした…」あとは言葉にならなかった。
鈴木コーチは近鉄ひと筋15年、豪快なスイングでファンを魅了した。「今までの近鉄のスタイルを支えてきたような人。気持ちがここ(福岡)まで届いてきました」フルスイングの伝統を引き継ぐ主砲・中村が、じっと天を見上げた。
19日の告別式には、遠征中の1軍から梨田監督が代表して参列する。もちろん、この日のボールを霊前に供える。「あと残った者で、しっかりやらんとな」悲しみを乗り越え、猛牛軍団が一致団結する。(武田 泰淳)

近鉄の現役コーチが40歳の若さで急死した。かつて豪快なバッティングで活躍した近鉄鈴木貴久2軍打撃コーチが17日午前1時17分、大阪・八尾市内の八尾徳洲会総合病院で、急性気管支肺炎のため死去した。
球団によると、同コーチは1週間ほど前から風邪による体調不良を訴えていた。15日のウエスタン・リーグ阪神戦では兵庫・鳴尾浜球場に足を運んだが、体調がすぐれずに試合前に帰宅。16日も大阪市内の自宅で静養していたが、深夜に容体が急変。救急車で病院に搬送され、間もなく息を引き取った。司法解剖の結果、「急性気管支肺炎」と診断された。
現役時代は右のスラッガーとして、いてまえ打線のクリーンアップの一角を務め、1989年のリーグ制覇に貢献。2000年の引退後、2軍打撃コーチに就任した。
「選手時代の仲間だし、コーチとしても若手のいい選手を1軍に上げてくれた」と梨田昌孝監督(50)はショックを隠せない。球史に残る88年10月19日、ロッテとのダブルヘッダー(川崎)。3―3で迎えた第1戦の9回2死二塁、梨田の中前安打で勝ち越しのホームを踏んだのが鈴木コーチだった。
近鉄はこの日からのダイエー3連戦(福岡ドーム)で左袖に喪章をつけることを決定。2軍打撃コーチについては、空席のままにするのか、新たにな人材を招へいするかを今後、検討していく。
◆鈴木 貴久(すずき・たかひさ)1963年11月20日、北海道生まれ。40歳。旭川大高を卒業後、電電北海道を経て、84年のドラフト5位で近鉄入り。強打の外野手として活躍。2000年に引退、01年から近鉄コーチ。通算1501試合に出場し、打率2割5分7厘、657打点、192本塁打。175センチ、84キロ。右投右打。家族は妻・ゆかりさん。

現役コーチの突然の訃報(ふほう)に衝撃がはしった。近鉄鈴木貴久2軍打撃コーチが17日午前1時17分、大阪・八尾市内の病院で急性気管支肺炎のため亡くなった。40歳だった。鈴木コーチは、15日のウエスタン・リーグ阪神戦に参加するため鳴尾浜球場を訪れたが、体調不良を理由に試合開始前に大阪市平野区の自宅に帰っていた。その後も自宅で静養していたが、前日16日夜に体調が急変して救急車で病院に運ばれ、そのまま帰らぬ人となった。
近鉄のみならず、球界全体に衝撃がはしった。40歳という若さで現役コーチが亡くなったという知らせに関係者は言葉を失った。
この日、八尾市内の病院で行われた司法解剖によると、死因は急性気管支肺炎。家族は話をできる状況になく、関係者の話を総合するしかないが、突然の訃報だったようだ。
鈴木コーチは14日、藤井寺球場で行われた2軍の練習では元気な姿を見せていたという。15日午前には、ウエスタン・リーグ阪神戦に参加するため鳴尾浜球場に姿を現した。この時は腰を押さえて「(前日14日夜に)犬の散歩をしていて車にぶつかりそうになったため、よけた拍子に腰をぶつけた」と語っていたという。グラウンドに立てる状態ではなかったため、石渡2軍監督が大阪市平野区にある自宅で静養するように勧め、本人も承諾した。関係者の話では、鈴木コーチの顔色はすぐれず、唇は紫色をしていたという。
翌16日も午前中に本人から「休ませて下さい」と近藤2軍マネジャーに連絡があり、自宅で回復に努めていた。ところが同日夜になって容体が急変。救急車で八尾市内の病院に運ばれたが、この日未明、帰らぬ人となってしまった。近鉄関係者に訃報が知らされたのは、この日の早朝だった。病院を訪れていた鈴木コーチの自宅近くに住む知人から、家族に代わって連絡が入ったという。
チームの福岡遠征に帯同していた球団関係者も、突然の悲しい知らせに動揺を隠せなかった。この日午後4時45分、福岡ドーム三塁側ベンチで緊急会見が行われ、藤瀬管理部部長が状況を説明。いったんは「腰を打ったことと亡くなったことに関係があるかどうか分からない」と話した。午後5時すぎに大阪市内の球団事務所からFAXが届き、司法解剖の詳細が判明。午後5時15分から福岡ドーム内のプレスルームに場所をかえて再度、藤瀬管理部部長が会見。「司法解剖の結果、腰のことは関係がないことが分かりました。(亡くなる)2、3日前から咳き込んでいたようです」と訂正した。後任コーチについては未定としている。
訃報を知ったチームは、福岡市内の宿舎で行われたミーティングの際、全員で黙とうをささげた。明日19日までのダイエー3連戦で、監督ら首脳陣と選手は喪章をつけてプレーする。近鉄悲願の日本一を見届けられなかった鈴木コーチの遺志を継いで、ナインは懸命に戦うことを誓った。

パ・リーグダイエー4−6近鉄、9回戦、ダイエー5勝4敗、17日、福岡ドーム】ウイニングボールよ、天国に届け! 鈴木貴久二軍打撃コーチの突然の悲報を受けた近鉄ナインは、喪章をつけてダイエー戦(福岡ドーム)を戦い、弔いの逆転白星を飾って、元祖いてまえ打線の一角を担った先輩に贈った。
泣いていた。目頭を押さえても、こみ上げる熱いものを抑え切れない。試合後、ロッカーから出てきた梨田監督は目を真っ赤にして、天国の“鈴”にそっと感謝した。
「自分たちと同じユニホームを着た人が亡くなるのはね…。きょうは鈴が勝たせてくれた」
何としても負けられなかった。この日、福岡に届けられた、鈴木二軍打撃コーチの突然の悲報。試合前に黙祷(もくとう)をささげ、全員の左肩に喪章をつけて臨んだ。
しかし、動揺は隠せない。勝たなければいけない思いが力みとなり、三回までグーリンの前に無安打。元祖いてまえ打線の一角を担った誇りを持ち、時には後輩に対して鬼になった鈴木コーチの姿が脳裏をよぎる。普段は温厚な紳士として知られる指揮官は、あえて円陣を組ませ「みんないろんな思いがあるだろうけど、リラックスして打たないと」と檄(げき)を飛ばした。
天国に哀悼の思いを届けたのは七回だ。1点差とすると、なお一死二、三塁で水口が左翼線を破る2点二塁打。「あの回に気持ちが集中していた」。二塁ベース上で左肩の喪章をぎゅっと抑えてみせた。さらに礒部の2点適時打もあり、打者一巡で一挙5点で逆転。まさに、鈴木コーチの継承してきた『いてまえ魂』での逆転勝利だった。
10年間現役をともにしてきた水口は「スタイルがすべて手本でした。師匠ですからね…」と涙で言葉を詰まらせた。がむしゃらに練習し、打席では常に勝利を信じて豪快にバットを振る。いてまえの魂をその背中で学んだ。「オレのまねばっかりしやがって!」。最高の“ほめ言葉”が思い起こされる。黄色いタオルで何度も、何度も、ほおをぬぐった。
「このボールをあさって(19日)、霊前に供えてくる。きょうはみんなで勝った1勝です」
指揮官は、右手のウイニングボールを握り締めた。昭和63年、伝説の“10・19”ロッテ戦のダブルヘッダー第1試合で自らが決勝打を放ち、鈴木コーチを本塁へ迎え入れた思い出がまざまざと胸に浮かぶ。この年、最終戦の第2試合に引き分けて西武に優勝を譲り、翌年、雪辱のV。しかし、悲願の日本一はいまだ果たしていない。旅立った“弟”に、Bクラスからの逆襲を心に誓った。
19日に大阪市内で行われる葬儀。継承し続ける『いてまえ打線』でもぎ取った福岡ドームでの今季初勝利に、きっと鈴さんも浮上の手応えを感じて、天国からほほえんでくれるに違いない。

近鉄の平成元年パ・リーグ優勝時の主力打者で、現二軍打撃コーチの鈴木貴久氏が17日午前1時17分、急性気管支肺炎のため大阪府八尾市内の病院で死去した。40歳だった。急死だったことから解剖され、病死と分かった。
突然の悲報だった。鈴木氏は、二軍打撃コーチとして参加していた15日の阪神戦(鳴尾浜)の試合前の練習中に腰痛を訴えて早退、翌16日は自宅で休養していた。球団によると、数日前から風邪で微熱があり、17日未明になって容態が急変した。
17日のダイエー戦前、福岡市内の宿舎でのミーティングで、藤瀬管理部長が選手や球団関係者に報告。全員で黙とうを行った。この日からのダイエー3連戦は喪章をつけて試合に臨む。
いてまえ一筋だった。鈴木氏は豪快な打撃で、87年から4年連続20本塁打以上。石井浩郎やブライアントらとともに、元祖いてまえ打線の一角を担った。00年オフに引退し、翌年から二軍打撃コーチに就任。次世代のいてまえ打線の育成に当たり、将来の幹部候補だった。
ときには憎まれ役も買って出る熱血漢。「社会人や大学から入った選手は寿命が短い。早く矯正しないと、ダメになる」。大卒の大西や山下らをスパルタで育て上げたが、志半ばで無念の他界となった。
後任コーチは当面、決めない方針。藤瀬管理部長は「数少ない大きな人材を失った。これからもチームの役に立ってもらおうというときに…」と沈痛な面持ちで話していた。
◆葬儀日程◆
通夜は18日午後7時、葬儀・告別式は19日午前11時半、大阪市平野区長吉川辺3−8−43、平野中央メモリアルホールで。喪主は妻、ゆかりさん。自宅は平野区長吉川辺3−9−10−814。

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